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閲覧数:1968
ID |
AN00181569-19751200-1016 |
アイテムタイプ |
Article |
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本文 |
AN00181569-19751200-1016.pdf
Type |
: application/pdf |
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Size |
: 395.8 KB |
Last updated |
: Nov 20, 2010 |
Downloads |
: 1421 |
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タイトル |
葉山嘉樹論の前提 ‐豊津受容の様相をめぐって‐
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別タイトル |
A premise about Yoshiki Hayama |
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著者 |
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版 |
Publisher |
出版地 |
奈良 |
出版者 |
奈良大学 |
上位タイトル |
奈良大学紀要
(Memoirs of the Nara University).
Vol.4号,
(1975.
12)
,p.19-
27
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識別番号 |
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抄録 |
葉山嘉樹は明治二十七年三月十二日、福岡県豊津村(現在豊津町)大字豊津六百九拾五番地に生まれω、大正二年三月二十二日福岡県立豊津中学校(現在福岡県立豊津高等学校)を卒業、三月二十九日早稲田大学高等予科文科に入学した。数え二十歳のことである(浦西和彦氏「葉山嘉樹年譜」『葉山嘉樹』昭48・6桜楓社)。さて、この二十歳までの豊津における生活の期間をここでは一応豊津時代と呼ぶことにするが、彼の豊津についての印象や豊津時代についての記憶(豊津受容)を分析すると一貫して豊津を厭悪する傾向が見受けられる。そして、このような嘉樹における豊津受容の様相と、豊津中学の先輩で嘉樹と同じ豊津士族でもあった堺利彦の豊津受容の様相とを比較するとき、嘉樹の豊津受容にはかなりの異常性が感じられるのである。紙幅に制限があり詳述する余裕はないが、豊津は豊前小笠原藩終焔の地で、幕末から維新にかけての小笠原藩の流転の歴史によって醸成された豊津なりの精神風土があったようであり、嘉樹はこの豊津の精神風土に対して何らかの精神的軋轢を抱いていたように思われるのである。小稿では堺利彦の豊津受容の様相との比較を媒介に、嘉樹の豊津受容の問題点を考察してみたい。筆者はこのことが嘉樹の自我形成過程を考える際のひとつの前提となるように思っている。 |
言語 |
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資源タイプ |
text |
ジャンル |
Departmental Bulletin Paper |
Index |
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関連アイテム |
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