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ID AN00181569-201403-1001
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タイトル 日本的教養(1):教養主義をめぐって
別タイトル
Japanese Culture (1) : 'culturalism'
著者
田中 文憲 (Tanaka fuminori)
教養部
publisher
出版地 奈良
出版者 奈良大学
上位タイトル
奈良大学紀要 (Memoirs of the Nara University). Vol.42号, (2014. 03) ,p.1- 22
識別番号
ISSN
03892204
抄録 本稿では、大正時代に日本に入ってきた「教養」の概念がどのように受け入れられ、日本人と関わってきたが、「教養主義」を手掛りに検討した。その結果、江戸時代からあった「修養」の概念が、明治時代にはぐくまれ、やがてそれが大正時代に「教養」にとって代られたことがわかった。
古典の読書を通じて人格の陶冶を目指すというドイツ的教養の影響を受けた日本の「教養」は旧制高校生を中心に受け入れられ、彼らのエリート意識と不可分のものになっていった。この時代の「教養主義」を担ったのはケーベルの影響を受けた阿部次郎や和辻哲郎であった。
やがて、マルクス主義の台頭とともに「教養主義」は衰退するが、戦争が本格化し、軍部が台頭するにつれてマルクス主義が弾圧されると、もう一度復活する。これが、河合栄治郎に代表される。いわゆる昭和教養主義である。戦闘的自由主義者であった河合もやがて軍部の圧力によって大学を追放される。
戦後、ふたたび「教養主義」は復活する。というより、戦中戦後を通じて教養書は読まれていたのである。このため、軍国主義への反発と反省から、戦前にまさるとも劣らないほど「教養主義」が盛んになった。
「教養主義」が没落するのは、高度経済成長の後である。日本人が豊かになり、大学進学率が高まり、みんなが中流意識を持つようになると「教養」は敬遠され、即物的な楽しみが求められるようになった。
最終的に「教養主義」を崩壊させたのは、海外からの要求を受け入れ、バブルを発生させ、消費に走ったわれわれ日本人自身である。現在、教養は地に堕ちたままである。「教養」は復権されねばならない。それが時代の要請である。
キーワード
修養
ドイツ的教養
教養主義
言語
jpn
資源タイプ text
ジャンル Departmental Bulletin Paper
Index
/ Public / 奈良大学紀要 / 42号
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