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ID AN10086451-19971200-1002
アイテムタイプ Article
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Last updated : Dec 16, 2010
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タイトル 大和国司興福寺考2: 春日若宮おん祭の創始
著者
朝倉 弘 (Asakura hiroshi)
史学科
publisher
出版地 奈良
出版者 奈良大学史学会
上位タイトル
奈良史学 (Nara shigaku : Nara journal of history). Vol.15号, (1997. 12) ,p.26- 46
識別番号
ISSN
02894874
抄録 中世の春日若宮おん祭は、結論的にいえば、摂関流(後述)から大和国司の吏務(支配)を付与されたとみなされる興福寺が主宰する、同国支配に関係する祭礼と考えられる。いわば、祭政一致の政治の形成とみなされる。大和国司の吏務の、興福寺への付与については「大和国司興福寺考」(『奈良大学紀要』二十一号)で述べたところであるが要点的に記しておく。禎子内親王(後三条天皇母)が、後一条天皇東宮の敦良親王(後の後朱雀天皇)妃となって以来、同妃の後見役をめぐって摂関家は、関白頼通を中心とした摂関流(道長正室源倫子の子)と権大納言能信を中心とした能信流(道長側室源明子の子)に分かれて対立した。こうしたなかで、後三条天皇が即位すると、上流貴族摂関流の全盛期は終わり、同流は、受領層を中心に中・下流貴族層を基盤とした能信流と結ぶ後三条・白河両政権の下に在ることを余儀なくされて承保期に至った。右記のような朝廷の動向のなかで、摂関流が故国と考えていた大和国と同国内にある氏社の春日社と氏寺の興福寺を同流のもとに確保してゆく、と考えられる政策として、承保元年(一〇七四)前関白頼通が亡くなると、その子左大臣師実は一定の見通しのもとに十歳の子(貴種)を覚信と名づけて興福寺に入寺させた。ついで、翌年叔父の関白教通が死去すると関白・氏の長者となった師実は、興福寺に大和国司の吏務を付与した、という(「大和国奈良原興福寺伽藍記」)。以来、興福寺は、この吏務の付与を伝承するなかで、大和国司としての支配体制を実現していったが、保延二年(一=二六)九月十七日に行なわれた春日若宮おん祭の創始はその一環と考えられる。本稿は、興福寺が同祭を創めるに当たって、他の神社の祭礼の様式を参考として採り入れた筈であるが、基本的には、その祭礼はどこの神社のそれであったものかについての考察である。
言語
jpn
資源タイプ text
ジャンル Journal Article
Index
/ Public / 文学部 / 奈良史学 / 15号
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